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2015年4月23日木曜日

トライアスロン・シーンに輝く女性、グウェン・ヨルゲンセンに迫る


グウェン・ヨルゲンセンが優れたスイマーなのは練習の成果であり、生来の才能もあって陸上界のスターとなりました。この二つをバイクでの粘り強さと組み合わせたとき、彼女はトライアスロンの世界チャンピオンとなったのです。

グウェンのプールでの練習法を見れば、水泳こそがオリンピック出場へのチケットとなったと思われるでしょう。ウィスコンシン生まれで黒髪、身長177cmの彼女は高校時代、学校が始まる前の毎朝5時と、放課後に周回練習を行っていました。世界最大のステージで戦う(彼女の8歳からの野望)などのとても大きな目標がある場合、一日に二回の練習を行うものです。彼女の練習倫理は誰も否定ができないでしょう − 彼女のパフォーマンスが非凡にわずかに届かないという事実をほとんど埋め合わせています。


「水泳で成功するためなら何でも試しましたが、その望みは叶いませんでした」と、カンファレンスチャンピオンや4度の高校水泳チームのMVPに輝いたことを謙遜して言及しない、28歳のヨルゲンセンは振り返ります。彼女の実に見事な水泳記録は、ウィスコンシン大学に行くまで続きませんでした。大学のチームで優秀になろうとどれほど努力しても、ランニングの様に水泳はうまく行かなかったのです。水泳のオフシーズンでは、彼女は高校の陸上のスター選手でした。水を愛したのと同じだけ陸上も彼女の得意分野であり、これこそ大学2年生までに陸上に専念しようと決めた理由でした。


「タイム計測をして、毎週のように大会に出ました。一年後、NCAA(全米大学体育協会)の大会に出たのです」と、トラック競技と二度のクロスカントリーの計三回でNCAA選手権を戦ったヨルゲンセンは言います。才能を認めようとそうでなかろうと、このアメリカ人アスリートはプロランナーとして人生を追い求めるという過酷な現実に、幻想を抱いてはいませんでした。20095月に学位を授与したあと、同大学に残って会計学の修士課程へと進み、卒業後はアーネスト・アンド・ヤングで公認会計士として働き出しました。
バーブ・リンドキストがその後すぐにUSA トライアスロン(USAT)から尋ねてきて、ドラフトが認められているオリンピックのトライアスロン(スイム1500m、バイク40km、ラン10km)がキャリアを積める競技になり得ると提案したとき、彼女はただ笑いました。

「そこまでうまくなるには、並大抵の努力では難しいと知っていました」とヨルゲンセンは言います。他の二種目を半ば諦めていたからです。しかし、トライアスロン世界選手権のアメリカ代表選手であり、2004年にオリンピック出場を果たしたリンドキストは、諦めようとはしませんでした。データで言うと、ヨルゲンセンはランニングに優れており、水泳の経験も豊富だということを知っていました。ロードバイクすら所有していなかったにも関わらず、です。リンドキストの粘り勝ちとなりました。ヨルゲンセンは渋々契約を結び、フルタイムで会計士の仕事を同時にこなしながら、週14時間のバイクの練習を始めたのです。リンドキストは彼女にトライアスロンのコーチを紹介し、トム・シューラーとの友好関係が始まりました。彼は、元プロサイクリストであり二度のオリンピック経験を持つ優れた選手です。

「ヨルゲンセンが23歳の頃に出会いました。息子と同級生です。彼女のまじめさが目を引いたんです」と彼は言います。「生まれつきの才能を持つ人間はたくさんいますが、どれだけ身体能力に優れていようと、まじめさが伴わないと意味がないのです」。シューラーはサイクリスト初心者であるヨルゲンセンを教えるためのプロコーチではありませんでしたが、彼女独自の活力や規律が彼に伝わったのです。


 「始めた頃、彼女はどの集団走行にも着いていけませんでした」と彼は言います。「これではまずい。世界最高のトライアスリートになるなら、地元選手の集団走行には着いていけるようではないと」。ヨルゲンセンは彼が最初に感じた不安に劣等感を抱きながら認めました。「ロードバイクに乗り始めて、自分はまぬけだと感じました。止まるたびに立ちゴケしていたんです。パンク修理などの基本的なことも、やり方がわかりませんでした」。

20103月までに徐々に自信が付いていき、フロリダ州クラモントのトライアスロン大会に初めて出場しました。8位という素晴らしい結果を残し、彼女にはエリートカードが与えられました。そして2ヶ月後、スペインのバレンシアで行われた国際大学スポーツ連盟(FISU)の大学世界選手権で大きく飛躍をして2位を勝ち取ったのです。2010年が終わる頃に、彼女はUSATから新人賞を受賞しました。

シューラーの非常に貴重な知識 - コーナーの曲がり方からパワーの伝え方に至るまでがなければ、ヨルゲンセンはこれほど早くトライアスロンで上達していなかったかもしれません。しかし、これまで彼が与えたアドバイスの中で一番のものは、2011年の集団走行中にプロサイクリストのパトリック・レミューと協力し合ってみてはと提案したことでしょう。二人は結びつくはずという彼の直感は見事に当たりました。ヨルゲンセンとレミューはその夜、初デートに出かけたのです。


明らかに何かがうまく行き始めました。それは、ミネソタ州セントポール(ミルウォーキーから500kmほど西の街)の自宅から毎晩ヨルゲンセンと電話デートをしたレミューのことだけではありません。ついにトライアスロン会場で全種目の脅威へと変貌を遂げた彼女にとって、サイクリングが第二の得意種目となっていったのです。2011年後半には、この新たな得意種目に磨きをかけるため、長期休暇を取りました。その秋、彼女はロンドンでの世界選手権シリーズに参戦して2位となり、アメリカチーム羨望の的であるオリンピック代表となったのです。

オリンピックは不調に終わりました。パンクにより、順位は55人中38位。それでも、ヨルゲンセンはトップクラスのトライアスリートとして世界にその名を広めることに成功しました。もう少し練習すれば、表彰台に届くはず。2014年までに、彼女は実行してみせたのです。世界トライアスロンシリーズ(WTS)での4連覇を達成した初のトライアスリートとして歴史に名を刻み、その勝利をエドモントンWTSグランドフィナーレで締めくくり、世界チャンピオンの称号を手に入れました(そのシリーズで勝つには16位以上の入賞が条件でしたが、彼女は優勝以外に満足しませんでした)。ブログでは、彼女はこの優勝をレミューとコーチのジェイミー・ターナーの手柄だと記しています。


「パトリック(・レミュー)とジェイミーがどれほど私のために頑張ってくれたかを知る人はごくわずかです」と彼女は書いています。「お祝いはしたくありませんでした。彼らを祝いたかったから」。その時までにレミューはプロを引退し、ヨルゲンセンのフルサポートに回りました。家事や彼女専用のスペシャライズド Amiraの遠征に向けたパッキング、そして彼女のことを100%想って行動したのです。ウィスコンシン州ケーブルにある二人がお気に入りの観光地で結婚の誓いを立てることで、彼は彼女の人生の一部となりました。自身の選手としての夢を諦め、彼女の夢に専念しましたが、レミューは私心のない夫だとは周りに思って欲しくないようです。

「とても良い使用人だと思っています」と、ヨルゲンセンへのサポートを楽しむレミューは言います。昨年二人は、レースを追いかけて南極以外の全大陸へと旅行しました。愛する女性と世界中を旅してサイクリングするのは、妻とそのバイクをしっかりとケアする些細なことに対して、とても良い見返りであるように思えます。レミューにとって最も大変なのは、管理が行き届かなくなることだと彼は認めます。「レースが不調だと、とてもストレスが多いのです。物事がうまく行かないとき、少し立ち止まって『やるべきことはやったかな?』と自問自答するんです」。


コミュニティーや愛する人々がヨルゲンセンに与えてきたチャンスに感謝する形で、彼女と新婚の夫は、2014年秋にジュニアのドラフトリーガルおよびパラリンピックのトライアスリートを支援する奨学金制度を発足しました。彼ら自身は5000ドルを寄付し、ROKAスポーツやUSAT協会、そしてニューヨーク・アスレチッククラブのおかげで基金は20000ドル以上に増えました。


 トライアスロンコミュニティー全体が、ここ数年で私に多くを与えてくれたので、お返しができるようになりたいです」とヨルゲンセンは言います。「トライアスロンにはお金が掛かります。バイクも安い買い物ではありません。もっと多くの人々に、このスポーツに関わってもらえればと思います」。この奨学金はアスリート100名以上の注目を集めました。金銭の必要性に加え、資金の創造的な利用計画やスポーツ中心の生活を訴えた幸運な人物が10名のみ選ばれ、12月初めに奨学金を受けました。彼女はこの奨学金制度を2015年も継続する予定です。

2016年のリオでの夏季オリンピックがすぐそこまで来ているので、ヨルゲンセンはまた大きな夢を抱いています。「オリンピックに出場したいのはもちろんですし、金メダルを獲りたいです。それは私のモチベーションですが、230年後に振り返ったとき、どんな成績であろうと素晴らしい経験となるでしょう。パトリックと共にこの夢のような人生を歩め、様々な場所を訪れられ、とても素晴らしいことがたくさんできます。こんな人生を、いまだに信じられません」。

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